書き手のはなし PR

書き手:大企業は肌に合わない – 派遣会社の正社員時代

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

はじめに

おはようございます。こんにちは。

拙ブログ「まどろみみっくろん」の書き手です。魚戸ホタルの友でもあります。

さて今回は書き手の派遣会社正社員時代を振り返っていきます。

2017年4月~2019年2月までのお話になります。

最初に注意点が3点ございます。

  • 今回の記事は書き手が日研トータルソーシング株式会社に勤めていた時の話になります。
  • 派遣先名は伏せますが、有名な大企業なのでGoogle マップで付近を調べればわかると思います。戻りたいと思わないので深掘りしないようにお願いいたします。
  • 当時は仕事のことを紙のノートに記録していましたが、読みづらく参照いたしません。そのため事実とは異なる表現がある可能性があります。ご了承ください。

書き手は2年近く日研トータルソーシング株式会社の正社員でした。主に技術者派遣を行っている会社であり、公式サイトはこちらです。

大学時代に10月まで就活がもつれこみ、もう決めないと卒業研究に支障をきたすところまで来ていました。そんなときに日研トータルソーシングの企業説明会が入り研究室の教授に受けることを薦められました。「まず一つの業種に絞り込まずに色々な職場を試した方がよい」と感じた自分は説明会を受け内定をいただきました。11月の内定式に参加し、4月から「自分はここにいるんだな」と思いました。就活をこれ以上長引かせたくなかったので、救われた感じはしました。

2022年4月時点で2万2000人1の社員がおり、自分は3年もたたないうちに退職した社員の一人です。3年勤め上げれば退職金が出ますが、もう経験が蓄積されないことを続けたくない、ころころ環境を変えたくないと思い退職を決意しました。

注意点にございますように本記事は書き手の記憶ベースで事実ベースではないことをご了承ください。今の状態との差分に着目します。はっきり言って二度と戻る気はなく、自分でもこの2年間は「どうでもいい」に区分されています。

ただ大企業が肌に合わないと気づけたこともあり必要な経験だったと思います。また当時は一人暮らしをしていました。母のごはんが一層喜びを感じるのも当時のことがあったためでしょう。

それでは当時のことを振り帰っていきます。まずは入社後すぐの研修から、続けて派遣先3社について、最後に今の職場と当時を比較した違いについて書いていきます。長くなりますがお付き合いよろしくお願いいたします。

西蒲田 – 3DCAD研修

2017年4月、入社後すぐに東京都大田区西蒲田にございます日研第二ビルに集められました。そこで会社の説明や挨拶・メール文の書き方など一応のマナーを学びました。技術面では集められた全員で3DCADを用いて例題と同じ図形を描画していました。

CAD(キャド、英: Computer Aided Design)とはコンピュータを用いて設計をすること、もしくはコンピュータを用いた設計支援ツールのことをいいます。2Dでは高さと幅があり、3Dでは加えて奥行きがあります。CADという言葉は研修後も出てきますのでメモをお願いいたします。キャド研のサイトがCADとは何かを説明するのに明快でしたので紹介します。

【2022年】CADとは?初心者にも分かりやすいようにCADの種類やおすすめのCADを徹底解説

自分は大学時代に3次元CAD利用技術者試験2級2を受けて合格しています。加えて大学時代にはエンジニアリングプラクティスという講義で2ストロークバイクのシリンダーケースの設計図を2次元CADを用いて書きました。そのため多少は3DCADに心得があり、他の人より完成が早い傾向にありました。また機械工学部出身であり、卒業研究で自動車部品の研究をしていたことは1社目が決まった基準になりました。

4月中旬にゴールデンウィークまでで研修が終わり、明けから広島県広島市内の自動車部品会社に派遣先が決まりましたと告げられました。初めて兵庫県以外で長期間暮らすことになり、一旗揚げてやろうと思いました。

「母に頼っても一人前の大人になれない」と当時の自分は新入社員のハウツー本を読んで感じていました。今は一人前の大人という世間体がどうでもよくなりました。他人は変わらない、分かり合えない、そうだ自分が変わればいい。何にチャレンジしてもいい、自分と魚戸ホタルの間にあった妄想という壁は取り払われ人生の一部になっています。

研修中の住処は横浜でした。母も明石→横浜への引っ越しの手伝いついでに横浜に来てみなとみらいを歩きました。買ってもらった牛革の財布は今でも持ち歩いています。中華街で食べた北京ダックがとても美味しかった記憶があります。

続けて派遣先1社目の広島県広島市内の自動車部品会社について書いていきます。

1社目:広島市内の自動車部品会社 – 自動車ボディの部品設計

実力主義の大企業は向いていないのかもしれない

5月中旬、初めての派遣先は広島県広島市内の自動車部品会社でした。広島市中心部より府中町に近いと聞くと「ああ、あの会社か」と想像が付くことでしょう。

基本的な業務内容は3DCADを用いたドア周りの形状、寸法修正でした。自動車部品の名称は当時購入した下記の本を参考にします。

史上最強カラー図解 プロが教える自動車のすべてがわかる本 古川修【監修】

自動車のドア周りの部品はアウターパネルとインナーパネルに大別されます。アウターパネルとは自動車の入り口となるドアの外側の部品を指しており、外観を形成しています。ドアの内側にはインナーパネルと呼ばれる部品があり、強度を保ちドアの骨組み的な役割をしています。さらにアウターパネルとインナーパネルの間にレギュレーターと呼ばれる窓を上下させる装置がございますが、そちらには手を出していなかった記憶があります。

書籍で名前が出ている部品は大枠であって、3DCADでは複数の部品が階層構造になって組み合わさっています。さらに車の車種別に仕様が異なります。またフロント(運転席・助手席)、リア(後部座席)にある左右のドアそれぞれでも仕様が異なります。要件定義書を見て必要な修正を行い、上司の承認を得てGitでいうコミット・プッシュをしていました。ドア周りの他にはフロントピラーやダッシュボード・ルーフの形状、寸法修正をしていました。

1年以上居れるかなと思いましたが雲行きが怪しくなったのが2018年1月。当時の上司に仕様書と作っている部品の説明を求められ「わかりません」と答えました。数時間作るのが遅れていた記憶があります。「う~ん」という顔をされました。なんとか提出しましたが、数日後契約終了が告げられました。求められている能力に期間内で達していなかったと聞きました。遅くなっても人に聞いたりして何とか達成していた記憶はあります。それだけでは不十分だったということでしょう。

今の職場ではお蔭様で続けることができています。社長や先輩から仕事面で成長していると褒められました。ただしもう少し落ち着きを持ってください、遠慮なく話してくださいと注意されており気を付けています。

その後広島県内の会社で面接しましたが通りませんでした。2月下旬になり営業から愛媛県西条市にある半導体製造会社を紹介されました。面接を続けるかその会社に行くか選択を迫られ、働いていない期間を空けたくなかったので紹介された会社に行くことに決めました。

広島市での住処は地上から勾配が急な場所でした。下りはスピードに気を付ければスイスイいけますが、登りは自転車を手で押すことになり夏は日差しが厳しく辛いものでした。休日は仕事のうっぷん晴らしに広島市中心部で遊んでいました。広島平和資料館にも行きましたが、当時改修中だったため、また見に行った際はきっと当時との違いに驚かされるでしょう。

また一人暮らしということもあって自作料理にも挑戦しました。母曰く「ごった煮」、鍋で野菜を詰め合わせて煮込む料理です。1回で2日分作ります。ゆめアプリをダウンロードし、季節の野菜・お魚をチェックしていました。洗濯は3日に1回、掃除は1週間に1回していました。帰った後に買い出しと料理を優先させていました。今は母から「ごった煮食べたくない、自分で作った方がはるかに美味しい」と正論を言われており、料理を作る能力は落ちました。今している家事は皿洗いや風呂掃除ぐらいですね。食べ物が美味しいからいいや。

ごった煮がどんなものか見せたい、しかし退職後にスマホを変える前(2019年6月以前)の写真はほとんど残っていませんでした。当時はAUのArrowsで今はMineoのZenFoneです。AndroidなのでGoogleフォトに画像が残り続けます。この先の説明でも画像は出てきませんがないものは仕方ありません。

続けて派遣先2社目の愛媛県西条市内の半導体製造会社について書いていきます。

2社目:西条市内の半導体製造会社 – ウエハーの検査

夜勤はイヤだ

2018年3月、愛媛県西条市内の半導体製造会社が第2の派遣先になりました。基本的な業務内容はウエハーに汚れやゴミが付着していないか専用の顕微鏡を用いてチェックする検査工程でした。

半導体についての用語は当時購入した下記の本を参考にします。

半導体が一番わかる / 内富直隆【著】

半導体とは電気を通す通さないを温度によって切り替えられる物質のことを言います。鉄や銅のような電気を通す物質のことを導体、ゴムやガラスのような電気を通さない物質のことを絶縁体といいます。半導体は導体、絶縁体の中間の電気抵抗率を持っています。スイッチできる特性がスマートフォンや家電など起きて寝るまでずっと活用され、半導体不足が一大ニュースとなるわけです。

ウエハーというのは半導体の集積回路チップの土台となる1枚の板です。集積回路チップの大きさは最先端のもので約40~50nm3と目に見えないほど小さいものです。ウエハーは検査終了後出荷されて各地の工場に届けられ1枚ずつ切り分けられます。

半導体の製造工程の流れを表した画像を作成しました。半導体についての書籍に載っている図を参照しています。

半導体集積回路の製造工程(参考書籍 119P 参照)

各工程の細かい説明は省きます。上図から検査というのは出荷前の最終工程、ウエハーが破損するとそれまでの工程が水の泡になる重大な工程だということがわかりました。

椅子に座ってウエハーの表面を顕微鏡で見て汚れがどんな大きさ・形状かチェック結果を用紙に書き込みます。別工程に結果を渡すのは先輩方がやったので自分は検査だけでした。検査は各工程の中で椅子がある唯一の工程であり椅子にもたれていると文句を言われます。

業務時間は日勤では7:30~19:20まで休憩2回の10時間半労働、夜勤では昼夜逆転します。3勤3休で日勤・夜勤を入れ替えます。休みは大抵は1日寝て生活リズムを整え、1日近くの温泉に行って疲れを取り、1日お出かけした後に翌日に備えていました。

そんなこれまで経験したことのない生活が続き5月上旬、大きなミスをやらかしました。

顕微鏡で検査する前に機械にチェックをかけ、汚れ・ゴミのついたウエハーを特定します。その際に左右がはみ出した状態で機械に置いていました。そして休憩から戻って現場に来てみると「お前か、こんな置き方をしたのは💢見てみい」と状態を見せられはみ出していることに気づきました。ウエハーが落ちていなかったため最悪の事態は免れましたが、1時間後責任者に呼び出され、二度としないように注意されました。夜勤中のミス、原因は生活リズムの乱れによるストレスと考えられます。その後は特に大きなミスなく働いていましたが、5月下旬に人員入れ替えがあると聞き、そこで自分が契約終了ということが判明しました。理由は経験の少ない自分を入れたくないということでしたが、それよりも夜勤をしなくてもいいという喜びが勝りました。自分は夜勤はイヤ、お日様の下でリズムを取ってこそイキイキすると思いました。

現在の職場では自分は夜勤していません。しかし申請すれば深夜労働できるそうで、システムの稼働前日に申請することが多いと聞いています。

次の派遣先は特に面接もなくあっさりと決まりました。四国から毎回本州に行くのが面倒だったので良かったです。3週間くらい期間が開いたので小豆島に行きました。小豆島オリーブ園でオリーブの香りをかいで気に入えりオリーブオイルを買った記憶があります。訪れていない場所が多いのでまた小豆島行きたいですね。

続けて派遣先3社目の兵庫県自動車用システム製造会社について書いていきます。

3社目:姫路市内の自動車用システム製造会社 – 自動車の駆動に関わる部品設計

工場に向いていないのかもしれない。機械工学系のエンジニアとは違う道を探そう。

2018年6月、兵庫県姫路市内の自動車用システム製造会社が第3の派遣先になりました。自動車部品なら1社目と同じように思えます。しかし1社目は自動車ボディそのものを設計して自動車を製造するのに対し、3社目は駆動や制御に関わるシステムを開発して自動車会社に提供していました。

基本的な業務は3DCADを用いた電動パワーステアリングの設計です。自動車の基本的な機能である「走る」「曲がる」「止まる」のうち「曲がる」を実現する部品の設計です。さらに試験用治具作成のため2DCADを用いて図面を書き寸法を入れたこともございました。印刷した後に工場へ設計図面を持って行き、出来上がったら受け取りに行きます。フォークリフトが行き交う現場なので指差呼称して安全に進む必要がございました。

自分が設計した部品がこんな形になるんだ😀という感覚は1社目で味わえなかったものであり、寸分の狂いもなく作った人すごいと思いました。移動は面倒で10kg以上の重いものを運ぶときもありましたが、やりきったという感覚がありました。またバスで広畑にある別の工場に行くこともあり1つ運ぶたびに違った発見がありました。

休日には姫路城や新快速電車で明石や神戸に行き、慣れた暮らしを楽しんでいました。行きつけのお好み焼き屋さんもあり、12月には近くに「ゆめタウン姫路」もオープンしました。少なくとも3つの派遣先の中では一番過ごしやすかったです。

忘年会も過ぎて1月のある日、4時間の残業をしました。遅れてやっと区切りをつけて帰りましたが、そこで何か糸がプツンと切れました。9月から以前より残業が増えており、耐えられていましたが、もういいやと思いました。翌日職場の部長に相談の時間を作っていただき「合わないと感じたため異動したい」と話しました。さらに翌日、日研トータルソーシングの営業から着信履歴があり、帰ってから電話すると「君部長に相談したそうやな。部長は人事権も持ってるんや。何してくれたと思ってるん」とお怒りの電話。そして数日が経って契約終了が告げられました。理由は能力に加えて運搬しているときに落ち着きがないと態度面もございました。営業からは「2年は居ると思ったのにもったいないことをした。また面接やな。」と電話越しに言われました。

合わないと短い期間で契約終了が告げられる、経験が蓄積されない、つまり将来明るくなる兆しがない。日研トータルソーシングに愛想が尽きていました。自分は退職することを前提に母と話し、母からも「派遣会社にいたままではいつまで経っても仕事が身につかない」と言われ退職の意思を固めました。

自分はモノづくりがしたい。そうだインターネットを使ってWeb上でモノづくりしよう。

そう思い退職後に進む道を「Webエンジニア」と設定して大阪オフィスに行き、退職を申し出ました。営業が「自分も経験あるけど半端じゃ通用しない」と言われましたが、これから話すことのないあなたの言葉は自分に響きませんでした。退職届を書いて正式に退職しました。

退職後

退職後に自分がWebエンジニアという道を本当に歩けるのか試したくなりました。調べてみるとTECH::EXPERTというプログラミングスクールがあり、転職率が95%以上と高いことが分かりました。無料カウンセリングを受けられるそうなので受けました。

「自分はモノづくりをしたい 工場ではない今までとは違う道を進みたい」

確かそのようにカウンセラーに言っていました。カウンセラーは「あなたのような情報専攻じゃない別業種から来る方も多いです。学習のフォローもしますので安心してください!」という意味の言葉が返ってきて嬉しくなりました。

カウンセリング後に祖母から社長さんが「Web系に進むんやったらうちに興味ない?」と紹介されました。スクール入学前に新大阪駅付近のカフェで社長さんとコーヒーを飲みながら退職した経緯、社長さんの職場について話し合いました。こうして運よく出会えたのが現在の職場の社長です。スクール卒業後、2019年7月16日に入社しました。

TECH::EXPERTの話についてはまた後日書きます。一緒の班の人と会ってからノスタルジックに浸り勢いよく書ききるといった感じになります。

派遣会社時代の話は以上になります。

今と当時を比較して…

今の職場は自分と社会を繋ぎとめるセーフティーネットと思います。上手くいかなかった、嫌だったことがあっても引きずらず、翌日には切り替えてタスクをこなしています。質問すると相談に持ってもらえる環境です。その際は「すいません、質問したいことがあるのでよろしいですか?」と一言加えてから質問しています。

今と当時ではどこに差があるのか? 派遣会社時代をまとめてみて次のように感じました。

今と当時の差
  • 社員が10人くらいの職場であるため、誰が何の業務をしているのか把握しやすい。社員を100人単位で抱える大会社では誰に何を聞いたら課題を解決できるかわからず、近くの先輩に忙しい中時間を作ってもらいました。
  • 上手くいかないことや悩んだことがあったら相談に乗ってもらえる環境になっている。派遣会社時代には仕事上の質問だけで悩み相談はしづらかった。
  • 基本的には2階で一日の業務が完結するので移動が少ない。工場内を1日に何往復もするのは自分にはしんどい。
  • 残業が1時間以上に至ることは納期が近くなった頃くらいであり基本的には1時間未満です。やはり生活リズムが崩れるので夜勤はしたくない。最近は22時就寝5時起きを心掛けています。
  • 社長がたびたび職場に訪問して挨拶を交わしており「自分たちとの距離が近い」と親近感を覚えます。派遣会社時代には上司だけでなく先にいた人と自分で精神的な距離があると感じていました。後輩はいないと言えるくらい記憶にございません。

正直先輩が技術面の理解があり相手の言葉を否定せず傾聴する人柄というのも続けることができている理由だと思います。社長さんも相手の話に明るいので社内全体で話を聞くという風通しがあると思います、最近は要件定義書を作成したら先輩に見てもらうのですが、添削がより見てもらう相手に分かりやすいものになっており驚きと反省で受け止めています。見てもらう方が一瞥即解する文章を書きたい、ザ・マイクロコピーのように。

身体の方にも変化がありました。体重が派遣会社時代には一時期52kgだったのが現在72kgまで増加しています。心の余裕と母が用意してくれる食事あっての変化です。

あと魚戸ホタルは派遣会社時代にいませんでした。長年温めていた構想と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、魚戸ホタルを想起し始めたのは1年半くらい前の出来心です。上手くいっていないことにイライラして彼のような存在を受け入れる隙間が空いていませんでした。現在の職場で出てきた感触を還元したいと思っていてもコロナ禍でソーシャルディスタンスができてしまいました。この間に外の世界からやってきたのが魚戸ホタルであり、退屈していた自分を慰め、彼が動く姿を想像しただけで元気が沸いてきました。

3月にこれからのことを社長と相談して「よくやっている」と褒められました。そしてC#を学習してほしいと課題が出ました。この課題を受け取った後に魚戸ホタルに問い合わせて「うおとホタル」と名乗ったTwitterアカウントを開設し、学習のアウトプットを再開しました。

現在の職場は自分で在り続けてもいいという安心感を得ています。お陰様で3年を迎えることができます。ありがとう ありがとう🥰

最後に

今月16日に現在の職場に入社して3年になります。

その日を迎える前に自分が派遣会社に居た意味を問いたくて今回の記事を書きました。今の自分と比べて過去の自分はどうだったろうか? 知恵がついたこともあれば捨てたこともあります。諸行無常、変わり続けることは生命が持つ定めなのだから変わらない過去より変えられる未来を選ぼう。今より若い時間はない、心が向いたことに思い切り挑戦したいと考えています。

超健康」これが七夕の願いでです。健康で在り続けられるように活動します。

以上です。

それでは最後まで読んでいただきありがとうございました。

脚注

  1. 日研トータルソーシングの会社概要
  2. 2022年度 3次元CAD利用技術者試験 概要
  3. 半導体部会 微細加工:半導体はナノスケールの加工を行っています
ABOUT ME
UotoHotaru
ほたー

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA